昭和41年08月27日 夜の御理解
もう十七、八年も前のことでございましょう。私があの東町の教会にお話に泊まり掛けで参りました時でした。田中先生から、こんなお話を聞いたことがあります。ある教会のとってもいい先生、もう人間がいいんですね、とにかくよい先生、そこの御信者に、当時 満州に行っておられた方がありまして、満州から、相当まとまった金額のお供えがあった、それで、その先生は、その信者のために、その纏まったお供えをその信者の名前で預金しておられた。
終戦そして引き揚げ、もう本当に裸一貫で引き揚げて参りました時に、その先生がその御信者さんに向って言われた、あんたがいつか送ってくれたお金は、こりゃまぁまさかの時に使おうと思うてから、あんたの名前で預金してあるから、あれを元手に一つもう一つ商売さして貰うて、終戦直後の事でございますね、どうぞこれでおかげを頂いてくれという先生の祈りを込めての、それを信者さんにいわば返されたんです。ところがねもう見事にその御信者さん それで失敗されたというお話しです。
もうこれは普通の人情話からいうたら、ほんとに尊いよいお話なんですよね、もうその親と子というか、信者と先生のその間柄というか、いかにも然もそれが信心のようにあるけれども、お道の信心では、それではおかげが受けられんところに不思議がある。これも、これはやっぱ東町の先生のお説教ん中に、こりゃ北野で聞いたお話であった。その内容を私忘れたけれども、その唄の文句だけは、私の信心にその後においても、私の信心の血にも、肉にもなっておるとこう思う事なんです。
それはねう言う事であった。鐘がなるのかしゅ木が鳴るか、鐘としゅ木のあいが鳴るという、その惟は都々逸の文句なんですというて、その話をなさっている、その内容は私忘れましたけれども、その事がですねお道の信心の素晴らしさだとこう思うです。鐘が鳴るのかしゅ木がなるか、鐘でもなからなければしゅ木でもない、その合間からよい音色が出てくるんだとこういう。天地の親神様が氏子あっての神、神あっての氏子と、あいよかけよで立ち行くという、その立ち行くというのはそう言う様な事。
そんならその親が子供の為に預金をしてやった。折角子供が親に楽をして貰いたいと思うて送って来たお金をそのまま残しておく、成程惟は親の思いとして又先生の願いとしては、ま人情的にはよいお話なんだけれど、よい事なんですけれどです、それでは子供が信者が助からないと言う事、然もそれが双方ながら助かりにならん。折角例えば教会に纏ったお金がでけて来たのだから、それを例えていうならば、それが親教会にお供えされたり、御本部にお供えされたり、又はお広間前がそれによって、改増築されたりと言う様な事に使われておったら、その信者自身も助かる訳なんですね。
教会も助かる信者もたすかりゃ、教会もたつ神様も喜んで下さりゃ信者も喜べれる、そういうおかげをいわゆるうあいよかけよでたちゆくという あいよかけよいわゆるそこんところに、その妙音というのがある。あんたが送ってくれたけんと、いうわけじゃない。あたしがそこでこうしたからと、いうのじゃなくてです、そのあい間からよいものが生まれてくる。この音色というのは、もう私共の想像する事も出来ない働きと言うものが、そこから生まれてくる。
余韻のあるあの鐘の音色というものがです、鐘だけでも鳴ることは出来ない。しゅ木たげでも鳴ることは笛ないけれども、この鐘としゅ木が一つになった時に発する音色なのである。こういうところを一つお互いが、よく分からなければ、いわゆるお道の信心は人情じゃたすからん、義理や人情じゃ助からん、神情一つでいけと。そこに例えばその 取り次ぎの先生が、心情をもって取り次がれる時、神心をもって取り次がれていく時、それだけの、沢山な、纏った金だけの力が信者に送られるだろう。
それが真心であればある程に、それが額が多ければ多い程に、その信者はおかげを頂くだろう、力を受けるだろう、それに返したからというて、それはそれだけのこと。然もそれで丸々失敗をしてしまった、というのですから、もうどっちもあぶ蜂取らずに、なって しまうというのが、その辺が一つ分からして貰うとですね、私共のものの見方、考え方が変わってくるんです。もう幸せな楽な方へ変わって来るんです。
先ほど、家内が言うんです、明日はもう小学校の夏休みがもうしまえですから、あの大掃除がある草取りがある。明日はあの愛子も、豊美も青年会の信心実習で居ないわけです、それにその草取りがあるから、あの中島さんが今朝からお届けしょった。明日はあの愛子ちゃんも、豊美さんも居られんから、奥様はうちにおいでにならにゃいけませんから、私が御用頂きたいと思いますと、草取りの御用はどうぞ私にさせて頂くようにという、お取り次ぎを願うておられた。
あたしゃそうお取り次ぎをさせて頂こうと、私も思うてその事を願うておった、したら、今晩家内が言う事なんです、「重子さんが行ってやるち言いなさるばってん、どげん思たっちゃ、あのあたしが行かにゃいくめごたる、又誰がどういう風に、言いなさる人があるかもしれん」成程 人情からいやりっぱである。自分がおってから、ご信者さんどん、やったでは相すまん、又それをとやこう言う人があったりしたら、いけないとこう言う。そりゃ言う人があっても、いいのである、ね。
そこんところがです。言われたらこっちが困ると言う様な頂き方ではなくてです、人の口には戸は立てられん、問題はあたしもおかげ頂かんならん、同時にね、重子さんがまぁだおかげ頂かんならんという願いのもとにです、心情でなら「重子さん、お暑いのにご苦労様です、けれども、しっかり御用頂いてきて下さいよと、と言うあり方にそういう思い方に、お前はどうしてなれんのかと」私が言うんですけど、「いいえ、そりゃ人の手前がある、ち」ですね。
人ん手前で自分もきつか思いせんならん、重子さんもおかげ頂かれんと言う事になるのです。もうこう言う所はですね、例えばなら「お前がほんに明日誰か行って貰うと、ほんによかばってん」それは、横で重子さんが聞きよった、だけん見かね聞きかね、してすから「そんなら、奥様私が行きましょう」と言うたのなら、それはいけんぞと。お供えでもそう御用でもそう、真心から例えばね、満州なら満州で、ほんとに特別なおかげを頂いたから、それがもういうなら、その信者の願いであったろう。
そういうおかげを頂きたいという願いであったろう。その願いがお供えになって教会についた。教会の先生はそれを心情では、受けられずに人情でうけられた、「あの人がいつ何処で、失敗どんするようなこつがあるか分からんから、その人んためにこりゃあの人が名前で貯金しとこうというて貯金された。ものの見事に敗戦引き揚げ、さぁそんな時にそのお金を見た時には、「ほんとに先生ご恩は忘れません」と言うて、信者は喜んだに、ちがいないです。「本当に家の先生は、人情深い先生だと」いうて。
本当その涙が流れる様に、嬉しかったろうと思うのです。さぁけれどもそれでは信者がおかげ頂かれなかった、助からなかったと言う事。よい芽がでなかったと言う事。信心はですね、そう言う所の内容が段々分からして頂く所にです、ものの見方思い方考え方、誰がなんと言うても、誰がなんと言うても、あなたがおがげを受けなければ成らん為のそれである。そこには私も助かっておれる。是が淡々としてですたい人情を使わずに、例えば預金をしたりせんで済む様な、その御用を断る様な事をせんで済む様な。
お繰り合わせを心ん中に頂かせてもろうて、いくだけの信心が出来なきゃいけないと言う事を、あたしゃ思うです。そこにいわば双方の助かり、神も助かりゃ氏子も助かる、教会もたちゃ信者も立つという。いわば言うに言われぬ、どうしてこう言う様なものがと、言う様ないわば余韻のある、鐘が鳴るのかしゅ木が鳴るのか、鐘としゅ木のそのあいが鳴るという、その音色がそこから流れて来る様な、おかげになって来るのですよね。
どうぞ。